【感想】完全養殖 朝葉晴瑠砂 『詩と思想』2017年9月号68ページより

詩と思想』2017年9月号68ページより。

この雑誌をざっと読んでいて、なんというか、端的に言えばグロテスクな詩を見つけた。
完全養殖 という作品で 作者は 朝葉晴瑠砂

作品における「私」は子どもを三回産んだことのある母親。
「私」は”産卵直前というメスとしての一番大きな役割を控えたはまちを売っている”

「私」は胎内に生命を抱いていた時に”とこしえの幸せ”を感じていたが、
一方で生き物としての種類が違うものの同じ立場にあるはまちを売っているという自分を観察している。
しかも次々と売れていくはまちは、人間に”舌つづみ”されるために”突然 絶命させられた”と表現している。


この詩の中で、はまちを売っている「私」の気持ちについては述べられておらず、
たんたんと状況が述べられている。
その脚色が多すぎないシンプルさが、この詩のグロテスクさと感性を輝かせているように思う。

普通、人間が食べるものは生き物であり、生き物を食べるために命を頂くことに躊躇していては生きていけない。
そんな当たり前の事実を「私」はもちろん知っている。
しかしそんなことを知っている「私」でも、産卵直前のはまちを”完全養殖”で育てたと謳い売りさばいている。
”完全養殖”というところがとても大事で、つまり人間に売られるため・食べられるために生まれさせられ生きさせられ、殺されるのだ。

養殖の魚など今まで我々人間はたくさん食べてきたはずで、それほど騒ぐこともなく自然なことだ。
しかし冷静になって考えてみると、”完全養殖”は自然なのか...?
ここでは「養殖は自然なんかじゃないんだ!不自然で、人間のエゴは控えよう!」みたいな陳腐なメッセージ性はない。

ただ、「私」は同じく生命を抱いたことがあるこの地球上の生命の同朋として、産卵直前のはまちの死体がヌッと存在を示していることに、
心を突き動かされざるを得ないという気持ちを詩にしているのではないだろうか。

この詩には善悪を標榜しようとする人間の狭量のようなもの、あるいは安っぽいきれいなだけのありきたりな美辞麗句もなく、
事実を書くだけで感じる人には感じることができる感性に思いを委ねているような気がして、印象に残った。